総鎮守・徳守神社の祭礼は、津山初代藩主・森忠政が慶長9年(1604)に同宮を再建して間もなく始まったとされ、氏子が練り物を出したのも同時期とされる。大隅神社も忠政により元和6年(1620)、津山城鬼門守護として城下(現在地)へ遷宮されるが当時の祭礼の内容は不明だ。寛文7年(1667)、徳守神社の祭礼に24町が練り物を出すも、いざこざが発生し市中の練り物が禁じられる。40年間の禁止期間を経て、森氏の後、元禄11年(1698)、松平宣富(当時は長矩)が津山城主となり宝永3年(1706)復活。宣富は徳川家康の第二子・松平(結城)秀康の曾孫で、越前家といわれ、徳川家一門のなかでも権威ある家筋(徳川御家門筆頭)で、祭りも親藩の威勢のごとく賑わいを増す。宝永4年(1707)には大隅神社の祭礼にも練り物が出され以後、恒例となった。
 宣富をはじめ、松平歴代藩主やその家族も度々「赤座屋敷」と呼ばれる津山城の一角にある建物から祭りを見物しており、第5代藩主・康哉が、宮川御門を開け城内に引き入れ、第8代藩主・斉民は城内で祭りに加わるなど初代からの慣例ということもあり、封建時代に異例ともいえる藩主と町方が身分を超え、ともに祭りを楽しんでいたことが分かる一例といえる。津山だんじりの囃子は、津山松平家の陣太鼓が始まりで現在も守り継がれている。

 明和5年(1766)年に京町、元魚町、鍛冶町、坪井町が「家臺」を出し、寛政4年(1792)には元魚町、鍛冶町が「藝臺」を引き出し子供2、3人がその上で踊ったとある。そして文化7年(1810)徳守神社の祭礼に船頭町が大小の提灯を付けた台を担ぎ、二階町は同様の車付き台を引き出し、神事の供として京町、新魚町が子供を乗せ太鼓をたたかせる現在の「津山だんじり」の原型ともいえる「神輿太鼓」を出した。また元魚町でも迎挑灯(神事の迎え)として同様のものを出している(同12年(1815)に堺町の出した芦田屋善兵衛が創案した「神輿太鼓」が彫り物付きの原型説がある)。文政3年(1820)には現存する最古の「津山だんじり」宮脇町の簾珠臺が造られる。現在も簾珠臺をはじめ全ての「津山だんじり」に宵、本祭りとも子供が乗るが、地域の将来を担う子供たちを大切にする津山の200年前から続く伝統ともいえる。一方、大隅神社は同9年(1826)の祭礼に中之町から初めて「神輿太鼓」が出たのを皮切りに同12年(1829)に東新町、天保元年(1830)の西新町と続く。

 そして、同10年(1839)の徳守神社祭礼には車付きの「神輿太鼓」を二階町が出し、同12年(1841)に伏見町、材木町からも彫り物の付いた現在の「津山だんじり」に続く「神輿太鼓」が登場する。その後も次々と彫り物の付いた「神輿太鼓」が各町内で新調された。また同時期の文政5年(1822)「町奉行日記」に「だん尻」の文字が見られ、その後も「たんし里」「だん志里」の文字が登場し、天保11年(1840)には「檀尻」が記されているが「神輿太鼓」と「檀尻」の区別の理由が不明で見た目も同様のものだったことから、明治以降「だんじり」に統一された。津山の祭りの中で「家臺」が「神輿太鼓」、「神輿太鼓」「檀尻」が現在の「津山だんじり」へと独自の姿を発展させていった。

 「津山だんじり」最大の特徴は「工匠は黙して語らず。だんじりにして、語らしめる」と当時の工匠たちが技と精根込めて彫り上げた命溢れる彫り物と社寺建築を小規模化してその技を詰め込んだ臺そのものだが、こちらは別の頁で踏み込んで紹介する。

 「神輿太鼓」「檀尻」は担ぐことが主流だったが、古くから車付き台も登場しており、担ぐ場合や状況に応じて台車に乗せ曳くといった2種類の方法に対応できる形がとられた。本来、津山では「だんじり」は台車を除く部分を指し、台車部分は「だんじり」に含まない。従って「だんじり」は台車から取り外し可能で、祭りが済むと「だんじり」は各部に解体され収納できるというもう一つの特徴を持つ。曳くことが当たり前となった今も中之町、東新町、古林田などの「だんじり」には縁柱に担ぎ棒を通した金具が残っている。

 “担ぐ”から台車に乗せ“曳く”過程は、幕末から明治にかけ徐々に主流が変化。大正、昭和初期には既に現在の形態が確立されている。当時は荷馬車台を転用し「だんじり」を据え曳き綱を長く伸ばし大勢で曳いたと伝えられ、荷馬車台を転用せず、「だんじり」の基礎台を真ん中にして前台と後台を取り付け繰り出したものもあった。新魚町の記録によると大正の初めに「欅造ニテ堅固ナル台車新調」とある。現在の台車への過程は一様ではないが、荷馬車台を転用したものは戦中・戦後もみられ、当時の根強い人気を裏付けている。またこの頃から下の幕(台車の勾欄をまわして垂れ下げる飾り幕)が好んで使用されるようになった。また右図のように徳守神社、大隅神社のだんじりが一堂に会する機会があり、安易に出動距離を伸ばせる“曳く”津山だんじりの確立を後押しした。

 現在の「津山だんじり」は、各町内自慢の「だんじり」を他町内に披露し威勢を競うため長距離の移動を必要とし、「だんじり」の出動が隔年またはそれ以上の間隔(※)がある町内もあるため、津山まつり伝統の子供の参加において、「だんじり」の定員からあふれてしまった子供は次回は成長してしまい参加回数が減ってしまうなどの背景から、子供が乗る台車の大型化、それに伴う操作性、安全性に加え長距離の移動が考慮され四輪のタイヤ、ハンドル等で操作する近代化(台車の変遷・現在の台車参照)が図られた。
 近年は、「だんじり」と台車を総体的に考える傾向が強く、昭和40年代後半頃から擬宝珠勾欄を設けるなどの趣向を凝らした台車が増えており、威勢を増した県指定重要有形民俗文化財の「だんじり」も引き出されるなど、さらなる発展を見せている。
 だんじりの出動間隔(※)は、天保13年(1842)、第8代津山松平藩主・斉民の時代に祭りに出動するだんじりの数に制限が設けられ徳守神社が6臺、大隅神社が2臺との藩命が下される。安政3年(1856)氏子町内は出動を順番で回すことを決め、この時の制限が隔年、3年ごとなどの出動間隔として徳守神社、大隅神社とも現在に残る。>>詳しく(現在は各町内会が出動の有無や間隔を自由に決めている)

<写真>
上=津山だんじりに乗る子供たち。将来の津山まつり、そして津山を担う希望の小若たち。だんじりから見る津山の町並みは心の中にきっと残るはず。
下=津山の東西にある東松原と西松原。文化財だんじり松栄臺(左)とともに伝統を守り発展する東松原と正統派の新しい山車、翔龍臺(右)で新たな歴史を拓く西松原。時代にあわせ固定的にならず、新たな活力を得て歴史を守り発展してきた津山まつりの一端を見ることができる。


 終わりに「津山まつり」「津山だんじり」は守るべき伝統は守りながら固定的にならず、時代に合わせ柔軟に対応してきた。地域に暮らす人々の結びつきを強くすることに主眼を置き、親や子供たちの思いをできるだけ反映し次代を担う子供たちが可能な限り祭りに参加しやすい環境を整えるために台車の近代化など400年続く祭りとして、全国的にも稀な手法をとっている。その結果、大隅神社、徳守神社に加え高野神社が、近年「津山まつり」に加わり、約190年前に造られた臺など県指定重要有形民俗文化財の「だんじり」が27臺あるにもかかわらず、新造されただんじり(飾り山車)は「津山まつり」に参加するものだけで21臺、他の市内各町内にも多数の山車が造られている。昭和38年(1963)に発足した保存会には、文化財だんじり保有町内に加え、上之町七丁目、鉄砲町、大和町、桜町、松原上、松原中、松原北、二宮山西が設立に参加しており、山車の出動も半世紀を超えようとしている。また文化財だんじりと異なり山車は各町内で保管場所も確保しなければならず、建造費に加えその負担を考えただけでも、歴史に加え全国に誇る発展を遂げた祭りといえるだろう。
(注:津山まつり以外の県重文津山だんじり「亀甲臺」を加えると文化財だんじりは計28臺)
 さらに「津山まつり」に加わることで、町内の結束、誇りを高め、新たに伝統を継承する彫り物も見事な山車に造り代える町内や、町内の父親らの手作りで建造された山車もあり、その思いは地域の誇り、ひいては郷土愛へと子供たちに受け継がれていくだろう。加えて日本三大みこしの一つ徳守神社の大みこし(文化6年・1809年造、重さ約300貫・1125kg、150人を超える担ぎ手が必要)も200年を経てなお氏子らに支えられ巡幸しており、昨今の地域の祭りの衰退を考えれば「津山まつり」「津山だんじり」の歩みは確かなものだ。
 曳き手は大人の力強さを乗り子の子供たちに背中で見せ、その子供を後ろで見守る押し役という「津山だんじり」の順列、200年もの長い年月を掛けて年齢、性別に偏ることなく地域の子供と大人との関係、互いの役割を構築してきた「津山まつり」の在り方は、地域の人々の付き合いが希薄となり、地域の在り方が問われる現代の古くて新しい事例として全国に誇る津山の財産だ。


<1・担いでいたころの名残り>
右の写真は、勢龍楼(中之町)の太鼓台下部分。=各部名称=
縁柱に担ぎ棒を通した金具(右上、手前と奥に2つ。左縁柱も同様だった)が残っている。また太鼓には巌獅子組(若連中)が書き込まれているのが分かる。
文化財だんじりの多くに現在もこのような金具が残っており、担ぐから、多くの子供が参加できるよう台車固定が主流となった昭和の大型化、近代化への過程を見ることができる。台車は文化7年(1810)から確認でき、このような背景から台車固定型への移行に違和感がなかったと考えられる。
ただ、あくまで固定型で一体ではなく台車は「津山だんじり」ではない。県の重要文化財に指定されている「津山だんじり」はすべて担ぎだんじり(舁き山)として建造されている。
解体修理のため縁柱にある金具に担ぎ棒を通しクレーンでだんじりを引き上げた時の様子(平成21年6月、担がれていた時のだんじりの姿が分かる)。この解体修理がきっかけとなり、平成21年10月、120年ぶりに担ぐ津山だんじりが復活した。

<2・大正、昭和初期の「台車」>
担ぐから曳くだんじりへと移行した「津山だんじり」。新魚町の記録によると大正の初めに「欅造ニテ堅固ナル台車新調」とある。昭和初期に数多く見られた「津山だんじり」を乗せる台車部分。左イメージ(壱)は基礎台を中心に前台、後台を取り付けたもの。(弐)は荷馬車台を転用したもの。
戦中、戦後もしばらくの間はこの形の台車(右側が前)が見られたが、現在は台車の大型化、それに伴う操作性、安全性に加え長距離の移動が考慮され四輪のタイヤ、ハンドル等で操作する近代化が図られている。
イメージ壱・弐とも約80年前の「津山だんじり」、弐の後半は下の幕(台車の勾欄をまわして垂れ下げる飾り幕)を再現したもの。
<3・現在の台車>
現在の台車の擬宝珠勾欄下側。下の幕(飾り幕)を付けていない状態=写真下。台車はだんじりに含まず、特にこだわりもないため長距離の移動、安全性を重視し近代化が図られている。津山では、年1回の祭りのために戦後間もない物資が不足していた時代、貴重で高価なトラック1台を潰し、惜しげもなくだんじりの台車として使用する町内が出てくると、その意気込みを良しとする町内が追随、これまでの台車<上記2>は一気に衰退した。
 しかし最近では初期の台車(大正、昭和初期)への回帰(模擬復元)を行う町内など新たな動きが見られるようになっている。


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