本名、美之助。美之輔、美能介、美濃三良勝利ともいう。
 天保5年(1834)4月28日小豆郡蒲生村(現香川県小豆郡池田町)に生まれる。備前国宿毛村(現岡山市宿毛)田渕という棟梁に弟子入りし、建築並びに彫刻の技術を学ぶ。修業すること、僅か1余年にして天賦の才能花ひらき、師匠を凌ぐほどの腕前となる。
 歳若くして棟梁となり、備前国西大寺の建築に従事、その技術の非凡さにおいて、人々を驚嘆させたという。腕前は年とともにすすみ、彫刻及び設計図に巧み、終始棟梁として社寺建築に腕をふるった。
 香川県三豊郡本山寺五重塔、大川郡白鳥神社、木田郡八栗寺山門、池田町保安寺、豊島十輪寺護摩堂、その他堂塔伽藍及び太鼓台の彫刻等多くのものを手懸けている。
 美之助が出懸けた「だんじり」で分かっているものは、3台。元魚町(麒麟臺)、坪井町(龍珠臺)、東松原(松栄臺)がそれで、東松原(松栄臺)は高山近之助も手懸けている。
 坪井町(龍珠臺)背面懸魚、海士彫物裏に「清浄大番匠 平間美濃三良勝利」の銘がある。
 大正2年(1913)9月没。




 幼名、直輔。ついで直吾、又は末平という。
 文政12年(1815)、児島郡胸上村(現玉野市胸上)に生まれる。叔父である佐五郎の養子となり、本家邑久郡玉津村尻海の井上を継ぐ。
 家業は回船業であったが、工匠の道に入り、大隅流・柳田流の建築・彫刻を極め、また狩野派の画塾で絵画を学んだ。
 青年期は「青龍亭錦海」といい、後に一家を成して「幽雪斎錦海」。中国地方各地の神社仏閣にも腕をふるったという。
 墓石に「彫刻明治十八年 車駕巡幸山陽 □製数品以奉献 天皇嘉賞命充御□□門 為栄焉 云々」と刻んでいる。
 明治25年(1892)11月16日没。




 幽雪斎の長男。幸吉、幸太郎ともいう。嘉永3年(1850)、邑久郡玉津村尻海(現邑久町尻海)に生まれる。号は鶴峯または平庵主人。
 父幽雪斎より技を受け継ぐ。算術・測量に長じ、早くから彫刻にも優れ、刀法の明快さ・意匠の斬新さに注目されたという。
 墓石に「先生尻海人錦海翁長子也 嘉永三年生名幸治号鶴峰 修彫刻技究美数術 後帰郷優游自適親酒茶風月 云々」と刻む。
 社寺はもとより、だんじり・机・花台まで手懸け、その足跡は大阪・兵庫・広島・島根と広域にわたっている。
 大正8年(1917)5月没。

 井上幽雪斎、井上幸治が手懸けた「だんじり」で分かっているものは、4台。河原町(桜若)・新魚町(飛龍臺)・鍛冶町(錨龍臺)・中之町(勢龍樓)がそうである。
 新魚町は、高山〓朝・小林定吉・井上親子が手懸けている。(〓は昭の下に火)


 (加えて、瀬戸内市牛窓の鹿忍神社秋季大祭に出る「沖だんじり」(県指定重要有形民俗文化財、明治8年作)や美作市林野の林野神社秋祭りに出る「上本町だんじり」も井上親子が手懸けており、倉敷市児島の19台のだんじり・千歳楽(せんだいろく)が練る鴻八幡宮の秋祭り(県重要無形文化財の祭り囃子(しゃぎり)が有名)では、田の口地区「奥」のだんじりも、伝承が定かではないが井上幽雪斎が手懸けたものとされている。)
 詳しくは、こぼれ話・その七「牛窓、林野、児島の各だんじりと津山との関係」をご覧ください。




 大庭郡上河内村(現真庭郡落合町)の人。戸島の杉山家に婿に入る。立田流大工の流れをくむ。津山市西寺町妙法寺三十番神堂建立の際、差し添えとして腕を奮う。三十番神堂の擬宝珠に、「嘉永二年己酉夏落成・・・・・・云々」のほか、「冶工 谷口治良左衛門尉藤原祐義 棟梁立田流大工 大庭郡上河内村 柴田安太郎藤原信光 差添 西条郡戸島村 杉山亀蔵信高」とある。
 明治26年(1893)没。




 天保13年(1842)11月8日に生まれる。西条郡戸島村(現津山市戸島)の人。継父亀蔵に技を習う。若干26歳にて苫田郡鏡野町河本にある八木山福泉寺庫裏建立の際、棟梁として腕をふるう。庫裏虹梁龍蛙股の彫刻のほか、象鼻・獅子鼻も見事である。柱に、「大工棟梁津山市戸島杉山松四郎」の札が残っている。福泉寺では、のち山門も手懸けた。
 家伝によれば、安岡町「だんじり」のほか、真庭郡落合町木山寺、苫田郡鏡野町土居小田草神社も手懸けたと伝わっている。
 現在杉山家に、象鼻・獅子鼻の彫刻2個が、残っている。墓は、津山市戸島774番地にあり、安岡町「だんじり」出動の際、安岡町町内の人のお参りが続いている。
 明治40年(1907)没。

昭和41年(1966)11月20日、津山山車保存会の手になる「津山の山車調査報告書」では、安岡町「だんじり」の製作工匠は、戸島の人杉山松蔵となっているが、調査することろの範囲では、杉山松蔵は存在しない。
 井上幽雪斎・幸治親子のように、杉山亀蔵・松四郎親子が腕をふるったと考えられる。




 本名、千賀平。近之輔、近之介、〓朝ともいう。東北条郡上高倉(現津山市上高倉)の人。津山の「だんじり」に鑿をふるった伝説的ともいえる巨大な工匠であり、その名前は、近之助の手懸けた「だんじり」として、所有町内の誇りとなっている。(〓は昭の下に火)
 船頭町(麟龍臺)・吹屋町(無銘)・新魚町(飛龍臺)・新職人町(隼臺)・下紺屋町(龍虎臺)・鍛冶町(錨龍臺)・東松原(松栄臺)・古林田(鳳凰臺)を手懸けた。うち新魚町は井上幽雪斎・幸治親子・小林定吉、鍛冶町は井上幽雪斎・幸治親子、東松原は平間美之助も鑿の跡を残している。その他、勝間田町(麒麟臺)も、近之助の作として伝えられている。
 高山近之助は、津山の「だんじり」に大きな足跡を残したが、その生涯は今となっては謎に包まれたところも多々有る。
 生没年は不明。しかし、地域には次の事が語り継がれ、また子孫にあたる福泉寺岩原家には大蔵省雇の辞令も残っている。
 近之助は、上高倉畑ヶ中に生まれた。僅か7歳にして、「グミの御堂」を作り、村人を驚嘆させ、工匠として天性の素質の片鱗をしめした。若くして大阪に出て修業、やがて「大工の技術養成所」を開設、後輩の指導に尽くした。この養成所の名称は「壷矩指南所」といわれたという。
 やがて、優れた技を認められ、大蔵省御雇となり、紙幣の版下を彫刻したという。また、蛤御門の変の際炎上した京都東本願寺の御影堂・阿弥陀堂が、明治13年(1880)から28年(1895)にかけて再建され、同44年(1911)までには他堂宇も完成するが、この時近之助が棟梁の一人として、腕をふるった。その後近之助は、腕前・名声を同輩に妬まれ、毒殺されたということが地元古老に伝えられえている。
 東本願寺再建の際、確かに高山姓の者が、棟梁として一人いる。しかし、近之助・千賀平を名乗らず、高山庄次朗との東本願寺の記録である。生国は、記録にない。
 地元の伝承と東本願寺の記録が一致しないが、もし当時近之助が庄次朗とも工匠の遊び心で名乗っていたと想像すれば、どうであろうか。
 精力的に数多くの「だんじり」を手懸けた工匠高山近之助は、その名声・腕前・遺した作品に比べて、生涯の謎の部分が多いが、このことも一層魅力を放つものとなっている。
 (加えて、東新町のだんじり「龍鷹臺」にも工匠は高山近之輔とあった)




 本名、定太郎。勝北郡西中村大門(現勝北町中村大門)の人。棟梁宮崎豊前正藤原友永の門弟。
 優れた宮大工で、多くの弟子を育てる。小林家墓所、勝北町中村城平の墓誌に「此所小林定太郎一族の墳墓の地なり。その子直平長男立志次男利器夫(九代目仏師)……云々」と刻む。
 定吉は、勝北町中村にある金森山新善光寺の本堂及び向拝の彫物も手懸けた。本堂正面、信州本善光寺御咏歌額(嘉永二年己酉弥生二十一日)に、「番匠 勝中 小林定吉」とある。また、向拝正面虹梁の龍蛙股裏に「勝中邑 施主 高山三郎右衛門」とならんで、「同所彫工 小林定太郎 嘉永三年庚戊歳初冬旦」と彫込みを遺している。
 定吉は新魚町(飛龍臺)の台を、高山〓朝・井上幽雪斎・幸治親子らとともに手懸けた工匠の一人で、正面欄間龍彫物裏に「小林定吉」の墨書きがある。(〓は昭の下に火)
 倉敷の小林家には、大工作法の巻物1巻と仏像を彫ったものが残っているほか、定吉は江戸にて、関西大工と関東大工の腕前の競い合いがあり、その際毒殺された。そのため、戒名・墓石は残っていないという伝承がある。
 生没年は不明。

出典:津山の祭りとだんじり(平成3年・津山市教育委員会) 新たに判明した部分は()書きで加えた。


<写真>
左=嘉永二年、高山近之助らが手懸けた新魚町(飛龍臺)
右=慶応三年、平間美之助が手懸けた元魚町(麒麟臺)

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